年齢を重ねれば重ねるほど差し迫ってくる病気の気配、特に極端に判断能力が落ちてしまうことが多い認知症は、患った本人にとって非常に深刻な事態です。
もちろん家族にとっても一大事です。家族は、認知症を患った方の介護に追われることになり、日常生活にも大きな影響を及ぼすことになります。特に深刻なのは、認知症を患ったままの本人が自身の財産を明らかに間違った管理をしてしまうことです。場合によっては、家族や親族に残すはずの遺産、遺留分をすべて失ってしまうことになりかねません。
認知症を患う危険性は世間一般でよく言われている通りで、本人の自覚がないままに病状が進行してしまうことが多くあります。気づいた時には手遅れというわけです。
そこで資産を持つ高齢者は、自分が認知症を患う恐れを考慮して、このように考えます。
「自分が元気なうちに、判断能力があるうちに財産の管理を信頼できる家族に任せたい」
家族信託は、そういった希望に答える形で誕生した制度です。
もちろん家族信託でなくとも、成年後見制度を利用することができます。成年後見制度については後述しますが、これは、認知症などで判断能力が衰えた高齢者の財産を守るための制度であり、家庭裁判所が選任した法の専門家による管理がなされるため安心です。
とはいえ、いくつかの欠点が存在し、その欠点を補った制度として作られたのが家族信託という制度です。
基本的に家族信託は、財産を保有する高齢者が、判断能力が低下し財産管理ができなくなってしまう前に、自身の財産管理を家族や親族に託すことを目的としています。
つまり、財産を保有する者は、家族信託の契約締結時には判断能力を備えていなくてはならないことになるのです。
では、認知症を患ってしまった場合、家族信託の契約締結はできないのでしょうか。今回はその点について解説いたします。
【 目次 】
1.認知症になった場合の財産管理の問題点
人としての正常な判断能力を失ってしまう、症状が進行すると日常生活すら困難となるのが認知症であり、その認知症を患った方の財産管理には多くの問題が発生することは想像に容易です。
無意味な買い物で金銭を無駄に消費する、といった程度であれば問題ありませんが、第三者に言いくるめられて財産をだまし取られるという事態が発生することも十分あり得ます。
本来ならば、大きな資産は適切に運用すればさらなる大きな財産を生み出すことができます。適切に運用された資産は残された家族に相続され、家族や親族にとって貴重な財産となります。
そのためには財産運用の目的を明確にし、その上で資産運用の専門家に相談、最も適切な資産運用方法を選択して綿密に戦略を構築していくことが理想です。
ところが、財産を保有する本人が認知症を患ってしまうと、それが極めて困難、あるいは不可能となってしまいます。
このように認知症を患うことにより、資産の適切な運用ができなくなり、最悪の場合、資産を失ってしまうことにもなってしまうのです。それは家族や親族にとっては絶対に避けるべき事態であるはずです。
2. 認知症になる前に家族信託を契約する意義
では、認知症になる前に家族信託を契約することにどのような意義があるのか。それを説明するために以下の事例Aを紹介いたします。
事例A
先祖代々から続く地主であり、3人の子を持つ父親のGは、自宅を含め多くの不動産を所有していますが、特にこれまで相続税対策や子供達への遺言については考えたこともありませんでした。もしこのまま相続が発生すると、数億円単位の相続税を納めなければならなくなります。
Gの相続人は、長男N、長女S、二女Dの三人で、兄弟関係は円満です。長女Sと二女Dは、嫁いでいるので、多くの土地については実家を継ぐ長男家族が最終的に相続することにG及び家族・親族の全員が納得しています。
今はとても元気なGですが、年齢を考えると早急に相続税対策を考え、将来の納税資金を準備しておかなければなりません。これから速やかに、遺産分割方法について記した遺言書を作成したり、不動産を自身の子たちへ売却したり生前贈与したり、数年かけてマンションや医療モールの建設をすること等を考えています。しかし、数年にわたる資産の有効活用・相続税評価減の事業計画途中でGの判断能力が低下してしまうと計画が頓挫してしまう可能性があります。できれば早急に事業計画に着手して、Nに事業を承継したいと考えています。
事例AにおいてGは、相続税対策として自身の所有する先祖代々の土地の有効活用を計画しています。ところが、Gは高齢であるため、長期にわたる土地の有効活用計画の途中で、自身の判断能力が衰えてしまうことを懸念しています。こういった場合、家族信託がどのように利用されるか。
まず、家族信託という制度では、委託者、受託者、受益者の三者が設定されます。
委託者とは財産を預ける者、資産を委託する者を指します。事例Aでは、地主である高齢のGが該当します。
受託者とは委託者の財産を預かり管理する者です。事例Aでは、Gの家族や親族が該当しますが、特別な事情がない限りは実家を継ぐ予定の長男であるNを受託者とすることができます。
家族信託における受託者は、幅広い権限を持つことになります。例えば、委託者の銀行口座です。受託者といえども委託者名義の口座預金からお金を勝手に引き出すことはできませんが、あらかじめ受託者が金融機関で受託者名義の信託専用口座を新規で作成し、そこに委託者の預金を入れて管理することができます。
他にも信託財産の現状を維持するための保存行為、また賃貸等の収益を図る利益・収益行為、不動産の購入や建物建設などの新たな権利取得、銀行からの借入れも行うことができます。つまり、受託者は「信託の目的達成のために必要な行為をする権限」が広く与えられています。
受託者の権利濫用を防ぐために、委託者が司法書士や弁護士などを指定して受託者の監督をさせることもあります。
受益者とは、受託者の財産管理によって利益を受け取る者です。受益者を誰に設定するかは基本的に自由ですが、委託者、受託者、そして司法書士や弁護士、税理士のような専門家を交えた協議のもとで決定することになります。事例Aの場合、Gが委託者と受益者を兼ねるか、Gの3人の子供たち、もしくはGから見ると孫にあたる者に設定することになるでしょう。なお、受益者は1人に設定しなければならないという決まりはなく、複数人あるいは法人に設定することも出来ます。
仮に、家族信託の契約をせず契約書も交わさないままGが認知症を発症して判断能力を失った場合、土地の有効利用の計画は頓挫、Gの相続人は図らずも億単位の相続税を支払うこととなってしまいます。
家族信託の制度を利用すれば、Gは自身が最も信頼を置く息子のNに財産管理を託すことができ、またGがNに対して財産管理の意向を伝えやすいというメリットがあります。NはGの意向を汲んで、専門家の意見を踏まえながらより有効な土地の利用や処分、資産運用、税金対策を模索することができます。
最も信頼を置く者に自分の意向を伝えながら、適切な財産管理を行ない、またそれにより利益の確保し生活費に充てることもできる。それこそが、認知症になる前に家族信託を契約する意義と言えるでしょう。
3. 法律行為を行うための判断能力
家族信託の契約締結は、委託者と受託者が「法律行為を行なうための判断能力」を保持していることが前提となります。
法律行為を行なうための判断能力は、以下のように定義されています。
「自分がしようとする行為の結果が法律上どのような意味を持っているか、についてある程度認識できる能力」
これは、財産行為については、おおよそ7〜10歳の精神能力に該当すると言われ、通常であれば、この判断能力の有無に意識が向くことはありません。しかし、認知症を患うとこの判断能力は極端に低下してしまい、前述したように、自身の財産の運用すらまともに出来ない、第三者に財産を騙し取られてしまうといった事態を招くこととなってしまうのです。
4. 判断能力の有無の判定基準
そのため認知症を発症し判断能力が落ちてしまう前に、家族信託の契約を締結することが非常に重要となるのです。
では、もし家族信託の契約締結前に認知症を発症してしまうとどうなるのか、そして認知症と診断されれば法律行為を行なうための判断能力がないとみなされることになるのか、についてお話いたします。
まず、認知症を発症してしまうと、基本的に家族信託の手続きはできなくなります。家族信託は、判断能力が低下もしくは失ってしまった場合の財産管理手段として利用される制度ですが、家族信託の契約締結には比較的高度な判断能力が必要です。そのため、家族信託の契約締結のための能力がないとみなされてしまうのです。
ただ、認知症の症状は人それぞれで、非常にわかりにくい場合もあります。そのため、日頃から接している家族や親族が注意しておく必要があります。
5. 軽度の認知症なら家族信託契約が可能な場合も
では、認知症と診断されれば必ず家族信託はできなくなってしまうのか。実は必ずしもそうではありません。法律行為を行うための判断能力は、認知症の診断結果ではなく、むしろ委託者本人が家族信託の契約内容をしっかりと理解しているかどうかが重要です。
認知症は見た目で重症度が分かるものではありません。症状は各人様々ですので、単に医師に軽度認知症(MCI)だと診断されたから、「判断能力がある。家族信託が可能。」となるものでもなく、公証人立ち合いにより、委託者が契約内容をしっかり理解していると確認できた場合に家族信託の契約締結ができます。
もちろん医師の診断も重要ですが、例えば、認知症の進行度を診断する簡単なテストを行うことでも委託者の現在の状況を判断することが出来ます。
6. 判断能力に関わらず利用可能な成年後見制度
高齢者が認知症を患い判断能力を失ってしまうと、家族信託の契約締結はできなくなります。その場合、高齢者が自身の財産を管理することになりますが、認知症の患者が適切な財産管理をすることは極めて困難です。そのような状況に陥ってしまった場合、家族や親族はどのようにして、認知症を患った委託者の財産を適切に管理するにはどうすれば良いのでしょうか。
そういった場合の財産管理の方法として、委託者は成年後見制度を利用することができます。認知症により判断能力を失った後でも問題ありません。以下、成年後見制度についてお話いたします。
法定後見制度とは、認知症などの理由で、法律行為を行なうための判断能力が不十分となった時に活用します。一定範囲の親族、検察官、一定の条件を満たせば市町村長などが、家庭裁判所に成年後見人の選任申し出を行い、家庭裁判所によって成年後見人が選任されるという制度です。
成年後見制度は、法定後見制度と任意後見制度から成り、制度を利用しようとする高齢者の状況次第で使い分けることになります。
法定後見制度とは、対象者に判断能力の低下の傾向が見られる場合に利用できる制度であり、後見、保佐、補助の3つの種類に分けることができます。これは判断能力の状態を3つの段階で表しています。
判断能力がほとんど失われた状態で後見、ある程度失われた状態で保佐、物忘れ程度の軽度なもので補助となり、それぞれ後見人、保佐人、補助人がサービスを提供します。
高齢者の法律行為を行なうための判断能力低下により家族信託の制度が利用できないと判断された場合は、この法定後見制度を利用することになります。
一方の任意後見制度とは、法律行為を行なうための判断能力がある段階で、自分自身で成年後見人を選ぶことができる制度です。いくつかの制限がありますが、ご家族はもちろん、弁護士や司法書士などを後見人に選ぶことも可能です。
家族信託と似ている制度ですが、明確に異なる点があり、それぞれ適切に使い分けることが必要です。
7. 成年後見制度の問題点
さて、高齢者が法律行為を行なうための判断能力を失ってしまった場合に有効に利用できる成年後見制度ですが、そこにはいくつかの問題点も存在します。これらの問題点をしっかりと認識した上で利用することが求められます。
まず、法定後見制度です。法定後見人は家庭裁判所が選任しますが、家族や親族の意思も汲み取って適切な人選が行われます。ただし、選任までの手続きが非常に煩雑で時間がかかり、法定後見人の人選次第では家族とのトラブルが発生することもあります。また、申立を弁護士や司法書士に依頼した場合は申立報酬、鑑定が必要な場合は鑑定費用、選任後は後見人への月額報酬等も負担しなければなりません。
本来であれば、家族や親族が信頼する者を法定後見人に選任したいところですが、人選は家庭裁判所に一任されていますので、必ずしも希望通りにはいかないのが現状です。
8. まとめ
先駆者が築き上げてきた財産を後継者が引き継ぎ、その時代に対応する形に再構築する、そうして日本の社会は成り立ってきたといってもいいでしょう。
高齢化社会が叫ばれる昨今であるからこそ、資産を持つ高齢者は、自身が判断能力を失う前に適切に後継者へ資産や事業を引き継ぐ必要性が高まっています。
そのために家族信託という制度は非常に機能します。とはいえ、それは委託者や受託者が法律行為を行うための判断能力を保持していればこそ。判断能力を失ってしまう認知症は、家族信託の契約締結の大いなる妨げです。そのためには以下を心得ておく必要があります。
誰もが認知症を発症する危険性があると考え、早い段階で家族信託の契約締結を想定しておく。
契約書を作成し、弁護士事務所で精査してもらい、金銭面でも問題ないかどうかをさらに確認を行なう。
契約締結後に問題が発生した場合に適切に対処、解決できるように、相談先の弁護士事務所を指定しておく。
認知症を発症してからでは手遅れです。もちろん、成年後見制度を利用することもできますが、家族信託という制度のメリットを最大限活用するためには、早め早めの準備が不可欠です。