自分の父親か母親、もしくはその2人が認知症になってしまった・・・子供にとっては、自身の日常生活を大きく見直さざるを得ないほどの大事件です。
改めてここでお話するまでもないことですが、認知症は、症状が進むと日常生活すら出来なくなるほど人の脳に大きな影響を及ぼす病気です。
認知症患者の世話をする者は、自身の仕事すら犠牲にせざるを得ないほどの介護をしなければならなくなる可能性があります。
近年は、日々の生活での予防が講じられ、また治療薬も開発されるなど、認知症の改善に光が見え始めていますが、それでも毎年多くの患者が認知症を患い、多くのご家族が認知症患者の介護の必要に迫られる現状があります。
ただ、認知症が引き起こす問題はそれだけに止まりません。
相続の手続きでも認知症は大きな問題となる可能性があります。
その中の1つが、共同相続人の中に認知症の方がいる場合の問題です。
もちろん認知症にも個人差や重症化するまでの段階があります。
ごく初期の認知症ならば、人によっては日常生活も、正常な判断もできるかもしれません。
ただ、相続手続きにおける相続人の役割は非常に重大です。
たとえ見た目にはなんら問題なかったとしても、相続人である認知症患者の症状の進行度はどう判断すれば良いのか、また相続人としてのその判断の公正性をどのように誰が判定するのか・・・他の相続人にとっては非常に悩ましい問題であることに間違いありません。
今回は、相続人の中に認知症患者がいる場合に相続手続きをどのように進めればよいのか、について事例を紹介しながらお話いたします。
【 目次 】
1. 相続人の中に認知症の人がいる場合の問題点
例えば、ある一定の財産を所有する被相続人に5人の法定相続人が存在するとします。
その後被相続人が死亡、葬儀も無事終了しましたが、被相続人は遺言書を残しませんでした。
そのため、相続財産は5人の法定相続人の手に委ねられることになります。
5人の法定相続人はそれぞれ遺産相続についての自身の権利を主張する準備を整え、遺産分割協議に臨みます。
ところが、5人の法定相続人の中の男性1人が、重度の認知症を患っているとの知らせを受けます。
それは、彼の奥様からの連絡で判明したことであり、疑う余地もありませんでしたが、真相を確認すべく、実際に彼に会ってみることにしました。
一家の長男でもある彼ですが、確かにまともに会話ができるような状態ではありませんでした。
遺産分割協議は法定相続人全員の合意が会って初めて有効なものとなります。
ところが、法定相続人の1人が認知症を患い会話すらまともにできない状態では遺産分割協議などできません。
いや、そもそも認知症を患っている者の合意があったとしても、それは有効な協議とはならない可能性が高いのです。
つまり、相続人の中に認知症の人がいる場合の問題点とは、遺産分割協議の実施ができず、相続の手続きを進めることが出来ないという点に他ならないのです。
2. 相続放棄には意思能力が必要
共同相続人の中に認知症患者がいた場合、どのように遺産分割協議を実施し、相続手続きを進めたら良いのでしょうか。
それには認知症患者が相続人としての放棄、つまり相続放棄をすれば良い、ということになります。
そうすることで共同相続人派健常者だけとなり、遺産相続協議を実施することができることになります。
しかし、それは非常に困難、いや不可能と言ってもいいかもしれません。
本人が認知症を患い意思能力を欠いていたからと言って、本人の明確な意思がないままなんらかの方法で家族や他の相続人が相続放棄の申し立てを行なったとしても、それは無効になります。
たとえ親族であったとしても本人の意思がないまま相続放棄の手続きを行なうなど道義的にも許されることではありませんし、そのことは平成27年2月9日の東京高裁で以下のような判決が出ていることからもでも明らかです。
「相続放棄についての理解能力を欠く者の相続放棄申述は無効であり、本件における相続放棄申述が受理されたことを理由として、上記の者を遺産分割調停の手続から排除した決定は不当である」
相続放棄は、相続人本人の明確な意思のもとで実施されなければなりません。
3. 遺言書による生前の対策
相続人の中に認知症患者が入ることによる相続手続き停滞を防ぐための対策として、被相続人が生前に遺言書を残すという手段があります。
死期が迫った被相続人が人生の最期に向けて準備を行なうことを「終活」ということがありますが、遺言書の作成もまさに終活の1つです。
被相続人も自分の死後、自身の財産を巡って法定相続人となる者同士が争うことを良しとはしないでしょう。
どんな手続きもそうですが、やはり相続も滞りなく早期に手続きを済ませることが理想です。
遺言書であるため、相続開始後は不可能な対策ではありますが、相続手続きにおける遺言書の効力は極めて強く、相続を滞りなく早期に手続きを進めるために非常に有効です。
被相続人が資産家であり、また広く事業を展開していた実業家である場合などは、特に遺言書の存在は重要です。仮に被相続人が遺言書を残さなかった場合どうなるか。
被相続人が多額の資産を所有していたとしても、事業の展開上、資産の他に負債を抱えている可能性もあり、また資産の1つに家やマンション、土地のような不動産を所有している場合もあります。
被相続人自身がその全容を把握していない場合もあるのです。
相続開始後、相続財産の全容は相続開始後に専門家による調査で明らかになります。
その後共同相続人の間で、誰が事業を承継するのか、遺産分割する場合どの財産を誰が相続するのか、不動産は誰に名義変更するのか、といった諸問題が発生することは目に見えています。
このように、被相続人が遺言書を残さなかった場合、相続人は手続きに大きな負担を強いられることになります。
手続きの負担のみならず、場合によっては共同相続人同士の遺産を巡る争いに発展し、最終的に裁判所の審判に委ねることにもなるのです。
遺言書があったとしても法定相続人が遺留分取得の主張をすることもありますが、それでも遺言書の作成することのメリットは極めて大きいと言えるでしょう。
なお、遺言書の作成は弁護士や司法書士、中でも相続の専門的知識を持つ専門家に相談し、彼らの監修のもとで作成することが重要です。
相続人の全員が納得できるように、利益相反しないように遺言書を作成する必要があるためです。
加えて、相続開始後の相続手続きの一切を一任する契約を交わしてもいいかもしれません。
4. 後見人を選任する場合の熟慮期間
実際に共同相続人の中に認知症患者がいた場合、どのように相続手続きを進めれば良いのか。
認知症患者である相続人は、相続手続きの能力を失っていますので、そのままでは相続手続きは進みません。
かといって、相続人1人を除いて遺産分割協議をしても、その協議は効力を持ちません。
その場合、成年後見制度を利用することができます。
成年後見制度とは、判断能力が著しく衰えた方の財産を犯罪等から保護するための制度を言います。
認知症患者の家族等が家庭裁判所に申立てることで成年後見人が選任され、認知症患者である相続人を成年後見してもらうことで、相続手続きを進めることが出来るようになります。
成年後見人とは、「法的な支援を行なうことを通じて、判断能力が不十分な人の生活を助け、また法的な保護とその権利の擁護を図るために、家庭裁判所から選任された人」のことであり、家庭裁判所から付与された権限で、本人の財産管理や身上保護に関する法律行為を行なうことが出来ます。
ただ、家庭裁判所に申し立てて成年後見人を選任してもらうまでに概ね1〜2ヶ月を要します。
そうなると、相続放棄の熟慮期間はどうなるのか。
この場合、熟慮期間の起算日は、後見人が選任されて相続人となったことを知った日が起算日となり、そこから3ヶ月が熟慮期間となることが考えられます。
つまり、後見人として選任された相続人は、3ヶ月の熟慮期間が与えられ、その間に相続放棄の手続きもできるのです。
なお、自分で成年後見人制度を利用することもできます。
自分の将来の判断能力や認知能力に不安がある場合は、判断能力があるうちに自分で後見人を選任し、実際にそれらが低下した時に家庭裁判所に申立てて手続きが開始されます。これを任意後見と言います。
5. 後見人選任の基準
では、家庭裁判所はどのような基準で成年後見人を選任するのか。
家庭裁判所への申し立てから、成年後見人を選任してもらうまでの手続きについてお話いたします。
申し立てには、まず、認知症患者の福祉関係者、ケアマネージャーやケースワーカーに「本人情報シート」への記載を依頼する必要があります。
「本人情報シート」とは、認知症患者本人の生活状況等に関する情報を記載するシートです。
シートはこちらで準備する必要はなく、福祉関係者に成年後見人の選任に必要である旨を伝えれば作成してくれます。
次に、認知症患者の主治医に「診断書・診断附票」の作成を依頼します。
これも本人情報シートと同様に、成年後見人の選任に必要な旨を伝えれば作成してくれます。
あとは、その他必要書類と上記「本人情報シート」と「診断書・診断附票」を添えて家庭裁判所に提出すれば、ひとまず準備は完了です。
その他必要書類については基本的なものを以下に案内します。
- 提出書類確認シート
- 後見、保佐、補助開始等申立書
- 代理行為目録
- 申し立て事情説明書
- 親族関係図
- 相続財産目録
- 収支予定表
- 後見人等候補者事情説明書
- 親族の意見書
必要書類は、提出先の家庭裁判所ごとに異なる場合があります。
事前に確認しておきましょう。
さて、申立人による書類の提出が済めば、概ね手続きは終了です。
誰を選任するかは、裁判所の裁量で決められることであり、あとは裁判所の判断を待つばかりです。
とはいえ、申立て時に「この人を選任してほしい」という要望を、候補者という形で裁判所に伝えることはできます。
裁判所はその要望を考慮してくれるはずですが、それが通るとは限りませんし、裁判所が選任した成年後見人に不服を申し立てることも出来ないと考えられます。
このように裁判所の裁量で選任される成年後見人ですが、欠格事由、つまり後見人には慣れない人の要件は明確にされているようです。以下に記します。
- 未成年者
- 家庭裁判所で免ぜられた法定代理人、保佐人または補助人
- 破産者
- 成年被後見人に対して訴訟をした者およびその配偶者ならびに直系血族
- 行方不明者
上記に当てはまらなければ後見人に選任される可能性があることになり、場合によっては法人が成年後見人になることもあります。
6. 成年後見人制度を利用する場合の注意点
裁判所に後見人を選任してもらうことで、相続手続きを進めることができるようになりますが、この制度を利用する上での注意点もあります。
それは、この制度はあくまでも成年被後見人のための制度であり、財産管理や身上監護など、被後見人の生活をサポートし権利を守ることを目的としているということです(被後見人とはこの場合認知症患者のことを指します)。
そのため、成年後見人制度を利用する事情とその解決方法が、制度に即していない場合はこの制度を利用する意味がないということになります。
もちろん、相続人に認知症患者がいることによって相続手続きが進まないという事情と解決方法は、十分この制度に即していると言えるので問題ありませんが、制度の目的をしっかりと理解しておく必要はあります。
また成年後見人とはいえ、成年被後見人に関する全ての権利と義務を引き受けるわけではありません。
権利の範囲、義務の範囲にも線引きがなされており、それらを超える行動については厳しく制限されています。
例えば、成年後見人であったとしても成年被後見人の所有する不動産を許可なしに売却することはできませんし、成年被後見人の借金を成年後見人が負担する必要もありません。
7. まとめ
相続手続きにおける最大の難関といえば、共同相続人同士の意見の対立や互いの主張の食い違いなどがあります。
遺産分割協議に端を発する相続争いは、時に激しく互いの意見や主張を戦わせます。
争いの舞台が法廷闘争にまで及ぶことも決して珍しくなく、その争いの様子が小説やドラマで描かれることもあります。
一方で、認知症を患った相続人の問題は、激しく意見を戦わせるようなものではありません。
しかし、相続手続きにとって非常に大きな問題を孕んでいることは、ここまでお話してきた通りです。
複数人存在する共同相続人の中のたった1人が認知症を患っただけで、相続手続きはストップしてしまう。
ただでさえ多種に及ぶ相続手続きに、さらに必要な手続きが増える。
誰にとっても、それは非常に煩わしい問題であり、「この人さえいなければ・・」と他の相続人の脳裏に悪魔が囁くこともあるでしょう。
例えば、その囁きが、認知症患者である相続人の意向を無視した第三者による相続放棄の手続き、というものであることも理解できます。
しかし、相続手続きは、どの共同相続人にとっても滞りなく早期に済ませるべきものであるはずです。
煩わしい手続きを排除するためにととった行動が、返って煩わしさを助長させるものとなってしまった、ということもよくあります。
結局のところ、法の規定に従った正当な手段が、相続手続きを滞りなく早期に済ませるために最も重要となるのです。
そのために他の相続人がすべきこと、それは相続開始後、出来るだけ早急に相続の専門家である弁護士や司法書士に、相続に関連する全ての事情を話して、その上で最も適切な手段を出来るだけ早急に取ることなのです。